北清事変/団匪事件/拳匪事件 義和団事件 † 日清戦争後の1899~1900年、列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。義和団が生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲った。 山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、 清朝の保守排外派は、この運動を利用し、各国に戦争布告した。 1900年に北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、各国は在留外国人の保護を名目に共同出兵にふみきる。 日本とロシアを主力とする8カ国 *1 の連合軍によって鎮圧された。 結果、講和を定めた 北京議定書 によって中国の植民地化がさらに強まった。 *1 日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・イタリア・オーストリア
そして、共通の敵(ロシア)を持つイギリスと日本の接近は、1902年に軍事同盟である 日英同盟 という形で実を結ぶことになります。 列強国に支配される側だった日本がイギリスと軍事同盟を結ぶなど、50年前(幕末の頃)には誰も夢にすら思っていなかったこと。このわずかな期間で日本という国は大躍進を遂げていたのです。(明治時代のスローガンだった富国強兵は大成功!?) 日清戦争での勝利と北清事変の活躍は、各国に高く評価され、日本はすでに列強国と並んでも遜色ないほどの大国になっていたわけです。 義和団事件・北清事変によって国際情勢が大きく変わる中、清国にも大きな変化が見られました。 清国政府は北京が列強国に制圧された後、態度を一変し 「やっぱ義和団は悪い奴らだから潰すわ!」 と義和団を攻撃し始めます。さらに清国政府は、北京議定書で負うことになった巨額の賠償金を払うため、民衆に重税を課しました。 すると、民衆たちは清国政府を見限るようになり、次第に 「清国政府なんかぶっ倒してしまえ!」 という風潮が高まります。 そして1911年、清国で 辛亥革命 しんがいかくめい が起こると、清国は本当に滅んでしまうことになるのです。(清国の情勢がカオスすぎる・・・)
1900年に清(現在の中国)で起こった、欧米列強を追い出そうとする宗教団体(義和団)の反乱ですね。 間接的ではありますが、日露戦争(1904~1905年)のキッカケとして覚えるものです。 義和団は北京を武力で占領しましたが、中国の租借化を進めていた列強8ヶ国がこれを鎮圧しようと出兵しました。(アメリカ、イギリス、ロシア、日本など) しかし義和団が鎮圧されても、ロシアが満州などから撤退しなかったことから、ロシアの南下を警戒する日本とイギリスが日英同盟を結びます(1902年)。 ロシアは満州から撤退するように要求されますが、この要求を聞き入れず、日本はイギリスで後押しされるかたちでロシアと開戦し、日露戦争へと突入しました(1904年)。
義和団の乱を簡単に説明する - YouTube
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