金閣寺と銀閣寺。覚えやすいし語呂もいいですよね。 金閣寺は、金箔がキラキラ輝く舎利殿「金閣」が世界的にも有名。そのため、一般的には金閣寺と呼ばれていますが、正式名は鹿苑寺(ろくおんじ)です。 一方、銀閣寺の正式名は東山慈照寺(じしょうじ)。観音殿が「銀閣」と呼ばれています。ただし過去に銀箔が貼られていたという事実はありません^^ 江戸時代に観音殿が月明りに照らされて銀色に見えたことから「銀閣寺」という名称が広まったと考えられています。予算の関係で銀箔を貼れなかった説など、間違った噂もありましたが、お寺としては観光客誘致の効果を考えて、あえて放置してきたとの事です。 出典:ブラタモリ 金閣寺と銀閣寺の共通点や違い、御朱印、拝観券、アクセス方法をまとめました。 金閣寺 銀閣寺 所在地 京都市北区金閣寺町1 TEL. 075-461-0013 京都市左京区銀閣寺町2 TEL.
5kmの観光道路があります。 途中には同じく世界遺産である「龍安寺」、「仁和寺」があり、そのままさらに西に進むと広沢池、嵯峨大覚寺、嵯峨天龍寺を経て嵐山まで続きます。鹿苑寺から嵐山は約5kmありますが、一日コースの散策路としていかがでしょうか?? 京都駅から慈照寺まで 慈照寺は東山の有名寺院の北端にあるといってよいでしょう。京都駅から三十三間堂、清水寺、高台寺、八坂神社、知恩院、南禅寺など多数の著名な寺社を経て約5kmのコースです。途中寄るべき史跡が多いので一日で回るのは難しいかもしれません。 本日は辻が担当しました。ありがとうございます。
2015. 12. 23 京都が誇る世界の観光地。「金閣寺」「銀閣寺」の違いとは・・?
4 岩波古典大系『万葉集』 大野晋 他 岩波書店 昭48. 12 小学館全集『万葉集』 佐竹昭広 他 小学館 昭56. 12 新潮古典集成『万葉集』 伊藤博 他 新潮社 昭59. 9 角川文庫『万葉集』 伊藤博 角川書店 昭63. 2 講談社文庫『万葉集』 中西進 講談社 昭55. 2 旺文社文庫『万葉集』 桜井満 旺文社 昭50.
そんなの、あったら、あったらで、気まずいだけだよ(笑)」…まぁ、その程度の人間です。 いつか、飲み屋でFM大阪の営業部の社員を見つけたら… 約束どおり、酒代をすべて背負ってもらおうと思います。 二代目プロデュサーの「ハットリ」さんが、 FM大阪で、冠番組をもって、マイクの前で気取って喋ったら、 絶対にメールを送ります。 立ち直れないくらいの「ダメ出し」をいっぱいしてやろうと思います。 だから、お互い、それまで、元気でいましょう! 街で見かけたら、隠れるんじゃないぞWW 「あばよ~!FM大阪」 …で、こんな「私」が ≪谷口キヨコ≫に処方した曲は、 「佐野元春」の「悲しきレディオ」です。 なぜ?私の曲をOAできなかったか?気になる方は、 ラジコのタイムフリー(1週間無料サービス)でも番組を聞いてください。 ③年➄カ月にもわたり、ありがとうございました。 また、いつか、どこかでお会いできる日を。 その時、また同じ時間を共有しましょう。 それまで、お互い元気ですごしましょう。 谷口「わー、わー、言うてます!」 柳田「お時間です!」 2人「さようなら!」 …(終)
© SHOGAKUKAN Inc. 丁髷に西洋式軍服がやたらと似合う草彅慶喜。 フランスのナポレオン三世からの招請でパリ万国博覧会に出展することにした江戸公儀。 徳川慶喜は洋装軍服をまとって篤太夫と大権現様ご遺訓を唱和するが……。 * * * ライターI(以下I):第21話もトピックスが盛りだくさんでした。 編集者A(以下A):〈人の一生は重荷を負うて 遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり〉。徳川慶喜(演・草彅剛)と篤太夫(演・吉沢亮)が唱和したシーンはいろいろな意味で名場面だったと思います。 I:私はジーンときましたね。まさか〈大権現様御遺訓〉の唱和がこれほど感動的なシーンになるとは思いませんでした。 A:確かに感動的なシーンでした。でも一方で私は、なんと厄介なシーンなのだろうと思いました。〈人の一生は~〉は徳川家康の遺訓ということで伝えられてきました。ところが、昭和58年(1983)に放送された『徳川家康』で初めて家康が大河ドラマの主人公になった時に、ご遺訓は「後世の創作」ということが広く伝えられました。 I:え? そうなんですか? A:書棚の奥の奥から昭和57年に刊行された『徳川家康おもしろ ものしり雑学事典』(講談社刊)を引っ張り出してきました。中学生の時に買った本ですね。この本の中には、遺訓を引用した後に〈よくできている教えだが、実はこの遺訓は家康が書いたものではなく、後世に作られたものだろうといわれ、今日ではその説がまかり通っている〉とあります。その後、尾張徳川家先代ご当主の徳川義宣さんの研究で由来も明らかになりました。同氏は吉川弘文館の『国史大辞典』の「東照宮御遺訓」の項目を執筆していますが、こうあります。〈「人の一生は(中略)過ぎたるよりまされり」の一文が徳川家康遺訓として世に知られているが、これは徳川光圀作として伝えられていた『人のいましめ』の教訓文を、幕末期に一部改め、『東照宮御遺訓』と改題して民間に流布せしめ、今日に至ったものである〉。 I:なるほど。幕末期に流布したということは、劇中で慶喜と篤太夫が唱和するということ自体は、不自然ではないわけですね。しかも慶喜の実家でもある水戸家が由来とは!