前回の2008年の募集の時には募集開始の1か月前にアナウンスしました。その前の1999年の時は5日前。短い時間では会社や家族の了解を得るのは難しいでしょう。我々はたくさんの優秀な人に応募してほしい。万全な準備で臨んで頂きたいのです。そこで来年の秋ごろ募集をすると発表することで、1年の間に応募する方に準備をしてほしいし、我々もアルテミス計画の具体化を見据えつつ、募集に関する準備を進めることができます。 2020年9月にNASAが公表したアルテミス計画。(提供:NASA) — なるほど。ところでこれまで米国では、政権が変わるたびに前政権の宇宙計画がキャンセルされることが繰り返されてきました。もし、トランプ政権に代わって民主党のバイデン候補が大統領になった場合、アルテミス計画がキャンセルされたり内容が変わったりするのではないかと危惧されますが、その点はいかがでしょうか? 今年の8月に民主党が政策綱領を発表していますが、アメリカ人を月に戻し、月・火星へとステップを踏んでいくNASAの取り組みをサポートすると書かれています。民主党政権になったからと言って計画が急に変わる前提にはなっていません。 — 国際協力についてはいかがですか?また実施時期について遅れる可能性はありますか? あくまで選挙用の政策綱領なので、アポロ時代に月に行ったアメリカ人を月に戻すという書き方です。また、現在は予算の審議が米国議会で行われているところで、大統領選挙の結果によってスケジュールに影響が出ることもあるかもしれません。しかし、今後の有人宇宙活動の国際的な展開が明らかでない中であっても、日本は有人宇宙技術を獲得し続けるのだという考え方でやっています。 — どういうことですか?
2017/12/02 06:10 ウェザーニュース 今から27年前の1990年12月2日、当時TBS社員だった秋山豊寛(75歳)さんが日本人初の宇宙飛行士として宇宙に飛び立った。「日本人初の宇宙飛行士」に予定されていたNASDA(現JAXA)の毛利衛さんをさしおいて、秋山さんが「日本人初」となった真相とは? −−TBSが、日本人のミール(宇宙ステーション)訪問に関する協定をソ連の宇宙総局と調印し、宇宙飛行士を社内公募したのは1989年3月。秋山さんが応募した動機を教えてください。 「宇宙から生中継するチャンスはめったにない。報道畑にいた私としては、視聴者と時間を共有する生中継がテレビの基本だと思っていましたから手を挙げました」 −−社内選考は厳しかったのですか? 「社内から500人が応募しました。審査基準はもっぱら健康チェックで、まず100人が残り、さらに21人になりました。そこまでは私も入っていたのですが、次に7人に絞られたときは私の名前はありませんでした。ところが最後に残った7人全員が不適格だったので、選考をやり直したのです」 紅葉が進む京都で秋山さんを取材した(2017年11月27日) −−結果的に敗者復活ですね。何が決め手だったのですか? 「決め手という意味では、私は当時、むし歯が1本もなかったこと、そして視力が裸眼で2. 0とパイロット並みだったこと。もう一つ、TBSがソ連側と交渉する通訳グループの中心にいたのが、後に作家となる米原万里さんで、彼女が私を推してくれたそうです。私が外信部デスクだったとき、米原さんと一緒に仕事をしたこともあって気心が知れていた。米原さんも個性的な人ですが、オエラ方のことなど忖度せず、ストレートな物言いをする私のような者の方が宇宙特派員にふさわしい、と強く推薦してくれたようです。当時、私は47歳の中年男でした」 −−健康診査の方はクリアしたのですか? 「私が一度落ちたのは、胃潰瘍の痕跡があるという理由でした。私に言わせれば、まともに仕事をしていれば40代までに胃潰瘍の跡が1つや2つあるのは当たり前。胃潰瘍にならない人間は、ろくな仕事をしていません」 −−宇宙飛行士の訓練はいかがでしたか? 「社内の選考を通ったのは私と女性カメラマンの菊地涼子さん。89年10月からモスクワ近郊のガガーリン記念宇宙飛行士センターで訓練が始まりました。最初の3ヵ月はロシア語の特訓と基礎体力の充実。年が明けたら授業と試験、トレーナーについてトレーニング。75kgほどあった体重は60kgになっていました」 宇宙飛行センターで訓練中の秋山さん −−トレーニングは厳しかったですか?
11年ぶりに国際宇宙ステーションに日本人宇宙飛行士が2人 日本上空を通過時の天気は? - YouTube
東北地方のダム一覧 (とうほくちほうのダムいちらん)は、 東北地方 ( 青森県 、 岩手県 、 宮城県 、 秋田県 、 山形県 、 福島県 )にある ダム を都道府県別にまとめたものである。 目次 1 東北地方のダム一覧 1. 1 青森県 1. 2 岩手県 1. 3 宮城県 1. 4 秋田県 1. 5 山形県 1.
3kmの大寄公民館敷地内に、栄一ゆかりの建物が2棟ある。いずれも瀟洒な煉瓦造りで、東京から移築されたものだ。 誠之堂は栄一の喜寿を記念して第一銀行(第一国立銀行の後身)の行員たちが出資して建てた。 解体のときに外壁や基礎などの煉瓦から「上敷免製」の刻印がみつかり、上敷免の地にあった日本煉瓦製造の煉瓦と確認された。 清風亭は、第一銀行で栄一を補佐した佐々木勇之助の古稀を祝して、やはり第一銀行の行員たちが建てたもの。スペイン風の様式で、平成11年に誠之堂とともに、いまの地に移築復元された。 栄一が、部下たちからいかに慕われていたかを物語っている。 誠之堂 誠之堂は西洋風の田舎屋で重文。内部には、中国漢代の貴人や侍者らの像を図案化したステンドグラスを取り付けた。 清風亭 清風亭は白い外壁に煉瓦でアクセントをつけ、屋根はスパニッシュ瓦をおく。県指定有形文化財。2棟とも取り壊しの危機に瀕したが、深谷市が保存に尽力。 住所:深谷市起会110-1(大寄公民館敷地内)電話:048・577・4501(深谷市教育委員会文化振興課)開館:9時~17時(入場は16時30分まで) 入場料:無料 休館日:年末年始 交通:JR深谷駅からタクシーで約10分 撮影/宮地 工 ※この記事は『サライ』本誌2021年2月号より転載しました。