お友達のSちゃんが、「新橋でおもしろいお菓子を見つけたので・・・」と届けてくれたのが「切腹最中」であります。 せっぷくもなか! 強烈なネーミングにchirosukeはびっくり! 桜散る… - 日々是好日. 餡子がどば~っとはみ出した最中であります。 濃いめの煎茶でいただくと・・・ナニコレおいしい! たっぷりの餡子はあっさりして、求肥も入ったとてもおいしい最中でした。 新正堂さんは東京新橋にあるお菓子司です。 大正元年創業の老舗です。 新正堂ホームページ 切腹最中は、「忠臣蔵」に因んでいるのですって。 お店が、浅野内匠頭が預けられて切腹された田村屋敷跡にあるのだそうです。 「忠臣蔵」にまつわる数々の思いを込めた商品とのことです。 パッケージには浅野内匠頭の辞世の句が書かれています。 「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」 chirosukeは最中をいただきながら浅野内匠頭の無念さに涙目・・・にはならなかったけれど、その後の「忠臣蔵」に思いを馳せました。 Sちゃんからは他にも、「景気上昇最中」と「出世の石段」をいただきました。 「景気上昇最中」は、小判型の最中に黒糖を使ったこし餡が入っています。 「出世の石段」は、バニラ・抹茶の2種類でクリームサンドのお煎餅です。 どれもおいしい和菓子です。 ネーミングは江戸の「粋」に溢れたお菓子だと思いましょう。 Sちゃんのセンスが何となくグッとくるおやつでありました。 せっかくですから忠臣蔵に因んで、大石内蔵助の辞世の句を書いておきましょう。 「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」 いやん・・・どうしたって切腹ですわね。 おいしい最中、ごちそうさまでした。
今日の風で、せっかく咲いた満開の桜が はらはらと 散り始めました。 『風誘う、花よりもなお我は又 春の名残を、如何にとやせん。』 ご存知の 浅野内匠頭長矩の辞世の句です。この、(春の名残を如何にとやせん)を読んだ 大石内蔵助は、殿の無念を晴らすため、仇討ちを 決意したと言われています。 元禄14年4月(1701年4月17日)殿中、松の廊下で、いじわるされた、吉良上野之介に 刃傷に及びました。(後、一太刀と懇願したのですが、梶川頼照に抑えられ、幕府の命により 一関藩、田村邸(芝愛宕下、現港区新橋)で切腹したのです。 浅野内匠頭は 9才で赤穂の城の 家督を継いだので、我慢、忍耐が 足りなかったのでしょうね。 でも、元禄の平和な時代、47人もの武装した人たちが、敵討ちを したんですから、スゴイ事件だったんでしょうね。 小林昭男
おはようございます。散歩。JT41台。ノーマスク13名。7097歩。 散歩コースの桜が散りはじめ、地面や石畳に花びらが、花筏のようにと 言いたいところだが、昨日の雨のせいで、美しくなくへばりついている。 風さそふ花よりも猶我はまた 春の名残をいかにとかせん 浅野内匠頭辞世の句とされている歌。 元禄14年(1701年)3月14日(新暦4月21日)、享年35。 浅野家の家紋は、「違い鷹の羽」で家の家紋も同じだ。 赤穂事件の後、浅野家家臣が、父親の生まれた福島県田村郡三春町に 移って来たとか来ないとか、土地の古老に聞かされたことがあった。 ぼくの先祖は浅野の家臣だったのかも知れないなあ。 似顔絵は、浅野内匠頭といえば、大川橋蔵さん。 ご訪問ありがとうございました。 ↓のバナーをクリックしてやって下さい。拍手も喜びます。 にほんブログ村 スポンサーサイト
詩吟 「風さそう(辞世の句)」 浅野内匠頭 - YouTube
引用元: 2019年5月1日から時代は令和になり、皇太子徳仁様が天皇に、雅子様が皇后になられました。 もともと外交官として第一線で活躍していた雅子様は、どのようにして天皇陛下と出会ったのでしょうか。 そして、天皇陛下に出会われる前はどういった人生を歩んでいたのでしょうか。 若い頃の彼氏は外交官だったとの噂もあるようですが果たして真相は? また、若い頃の雅子様は綺麗で、あの武井咲にそっくり!?な画像も見つけてきました! ではご覧ください。 雅子様の生い立ち 雅子様は1963年に外務省職員の父親と、エールフランス航空の秘書であった母親の長女として誕生しました。 幼少期は父親の仕事の関係でソビエト連邦やアメリカなどで過ごし、海外生活を経験しています。 幼い頃から語学が堪能で、大学は 世界的に有名なハーバード大学を卒業 されました。 帰国後、東京大学に入学しますが途中で外務省入省が決まり、 女性初のキャリア官僚 として注目されるようになります。 入省後も研修留学としてオックスフォード大学に2年留学されていました。 輝かしい経歴で、改めて天皇陛下にふさわしい女性だと感じますね。 雅子様の若い頃の彼氏は外交官? 雅子様 元彼 死亡奥参事官. 天皇陛下との仲睦まじい姿が微笑ましい雅子様。 若い頃はお付き合いしている方がいたのでしょうか? 調べてみると、「奥克彦さん」という方が元彼ではないかと噂されていました。 奥克彦さんは雅子様の5歳上で、雅子様と同じく外交官を務めていました。 もしかして職場で出会ってお付き合いされていたのではないかと思いましたが、実はこの 情報は確かではない ようです。 この男性は外務省時代に研修留学でオックスフォード大学にいっていますが、雅子様と時期はかぶっていません。 また、2003年にイラクで職務中に亡くなられています。 雅子様との接点が見つからず、具体的なエピソードや証拠もないので、 単なる噂 ではないかと言われています。 雅子様と天皇陛下の馴れ初め 天皇陛下と雅子様が初めてお会いになったのは、1986年のスペインのエレナ王女の歓迎レセプションでした。 天皇陛下が26歳、雅子様が22歳のときです。 その時、父親である小和田条約局長令嬢として参加していた雅子様に天皇陛下が一目ぼれされたのです。 天皇陛下はその後も何度か雅子様をパーティーに招いたり、食事を共にして猛アプローチ。 なんと、 24歳の誕生日にはご実家に花束を贈り届けられた というから素敵ですよね!
いつだったか、友人がふと漏らした言葉が忘れられない。 "雅子さんてかなりの 女傑 だったらしいね。特に英国留学中の男性関係は凄かったらしい" 当時は、 雅子さんが浩宮さまと結婚 するって噂が流れてた時だったから、 "また始まったな、 雅子様パッシング が" とか、 "父親が外交官で、ハーバード大卒の才女なんだから、ヤリ放題だったろう" って、軽い気持ちで捉えてた。 でも年齢が私と一つしか違わないから、不思議と親近感を覚えた。それに他人事に思えない。雅子様の考え方も価値観も、ウルトラマン世代のそれと全く同じ様に思えたからだ。 噂は本当か?それとも?
奥 克彦 (おく かつひこ、 1958年 1月3日 - 2003年 11月29日 )は、 日本 の 外交官 。 イラク日本人外交官射殺事件 で銃撃を受け 殉職 、 参事官 から 大使 に2階級特進。 位階 勲章 は 従四位 旭日中綬章 。 学歴 は 早稲田大学政治経済学部 政治学科 卒業 。 位階 は 従四位 。 学位 は 政治学士(早稲田大学) 。 称号 は 大使 。 兵庫県 宝塚市 出身。 家族 は夫人とこども3人(1男2女)。 目次 1 経歴 2 同期 2. 1 同期入省 2. 2 同期留学 3 人物 3.