腰椎 固定 術 再 手術 ブログ

Wed, 26 Jun 2024 12:10:51 +0000

ちょうど、聖武天皇や行基が奈良の大仏を造立している頃、日本の仏教史を大きく塗り替えた1人の僧侶が唐から日本へやってきました。 鑑真(がんじん) です。(上の写真) 鑑真は、唐の皇帝から「鑑真、あなたは唐にとってなくてはならない方だ。日本へ行ってはなりません。」と言われるほど、才能豊かで博識な人物でした。 鑑真は日本に計り知れないほどの大きな影響を与えました。 鑑真は密教や天台宗の教えを日本に伝えます。鑑真が来なければ、空海や最澄がここまで有名になることはなく、高野山や比叡山もただの山になっていたかもしれません。 さらに豆腐や味噌、漢方薬という現代の我々が使用している日常品。これらもまた鑑真が日本に伝えたと言われています。 鑑真がいなければ味噌汁に納豆・・・というTHE和の朝食もなかったわけです!! 奈良へ大人の修学旅行|歴史に浸るひとり開運旅|みんなの旅プラン. 今回はそんな重要人物、鑑真来日の感動の物語をわかりやすく解説していきます。 そもそも、鑑真はなぜ日本に来たの? ところで、なぜ鑑真ははるばる日本にやってきたのでしょう。 そこには、乱れた僧の風習を正そうとする朝廷の思惑がありました。 当時、日本は「仏さまを厚く信仰し、仏さまのご加護によって国を災いから護ってもらおう!」という鎮護国家の理念に基づく国造りを進めていました。 現代人から見れば、「は?」っていう感じでしょうが、現代ほど科学技術や自然科学が発展していないこの当時の人々にとっては、大切な理念だったのです。 これに伴い、日本では僧尼令という法律を制定し、「 国で認めた人しか僧になっちゃダメ! 」という決まりを作りましたが、 ・認められた僧にもかかわらず、酒を飲み、女遊びをする僧が後を絶たたない ・国が認めてないのに勝手に僧になる(私度僧という。) というのが社会問題となっていたのです。 普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)の鑑真探しの旅 そんな僧の乱れに悩む朝廷は、ある時、「唐には僧を律するための「戒律」というルールがあり、僧たちはみな戒律に従い厳格な生活をしているそうだ」という噂を耳にします。 これに飛びついた朝廷は、733年に普照と栄叡という2人の僧たちにこう命じます。 「 これから遣唐使を派遣するから、お前たちも唐に行き「戒律」というものをぜひ日本に伝えてくれ! 」 こうして、733年、普照と栄叡は遣唐使と共に唐へ向かいます。 出発から2年後の735年。遣唐使たちは先に日本へ帰国しますが普照と栄叡は戒律を探すため、引き続き旅を続けました。 余談ですが、この735年の遣唐使たちの帰国が日本に天然痘をもたらし、日本で多くの人を苦しめます。 日本で最初の怨霊!

奈良へ大人の修学旅行|歴史に浸るひとり開運旅|みんなの旅プラン

美しい「金堂」で人々を魅了する「唐招提寺」。その歩んできた歴史はどうなってるの?

誰でもわかる鑑真!わかりやすく丁寧に紹介【なぜ日本に戒律を伝えたのか】 | まなれきドットコム

?藤原広嗣の乱をわかりやすく解説!-聖武天皇はなぜ東大寺の仏像を造ったのか-3/4 今回の主役は、藤原広嗣(ひろつぐ)という人物。上の人物です。めちゃ強そう・・・。 藤原広嗣は、朝廷の人材登用に不満を抱... 普照と栄叡は、唐という異国の地を9年間もの間放浪し続けます。挫折し諦めそうになったことも幾度となくあったでしょう。 執念の9年間、鑑真との出会い 9年間、異国の地での放浪は苦難の道のりだったはずです。しかし、普照と栄叡は諦めませんでした。 そして、742年、遂に普照と栄叡は鑑真と出会います 。鑑真は唐で4万人以上の人々に授戒を行ったと言われ、唐でも有名な僧だったのです。 「授戒」という言葉がでてきました。授戒とは、戒律を守らせるために行う儀式のようなものです。新たに授戒を受けようとする僧は、10人ほどの僧の前で、「私は戒律を守ることを誓います!」と宣言するのが普通でした。 10人の僧が立会人となることで戒律を実効性あるものとしていたのです。1人で「戒律守るわ!」って言っても誰も信用しませんよね? 誰でもわかる鑑真!わかりやすく丁寧に紹介【なぜ日本に戒律を伝えたのか】 | まなれきドットコム. 鑑真、来日を決める 日本海は、荒波で多くの命を奪ってきた魔の海です。最初は、危険を冒してまで日本へ行くことに鑑真もその弟子たちも否定的でした。 しかし、普照と栄叡の必死のお願いにより、 鑑真は日本へ戒律を伝えに行くことを決意 します。 何が鑑真に命を賭してまで来日することを決意させたのか。実は定説が定まっていません。が、いずれにせよ、鑑真は強く決心したことは間違いないです。 普照と栄叡の9年の苦難が報われたかのように見えますが、これから 想像を絶するさらなる苦難の道のりが待ち受けている ことを普照と栄叡、鑑真たちはまだ知りません。 鑑真、来日失敗! (一回目) 743年、さっそく渡航の準備を進めます。 しかし、当時の唐では一般人が海外へ行くことは固く禁じられていました。そのため、日本への渡航準備は、お役人にばれないようひっそりと行われていたのです。 しかし、 鑑真の愛弟子たちは、役人たちに密航をばらします 。弟子たちは、鑑真に危険な渡航をさせたくなかったのです。 こうして、第1回目の渡航は失敗し、鑑真を渡航させようとした罪で普照と栄叡は牢獄へ入れられます。 鑑真、またまた来日失敗! (2回目) 普照と栄叡は、日本へ帰国することを条件に、釈放されます。 しかし、たった一回牢獄にぶち込まれたぐらいで諦める普照と栄叡ではありません。なんせ9年間も諦めない男たちですから。 744年、普照と栄叡は鑑真の下へ戻り、改めて密航の準備を行いました。 第2回は、お役人にばれることもなく渡航に成功。これで遂に日本に到着か!

【奈良】唐招提寺の歴史と創建の由来を簡単にまとめてみた【世界遺産】 | 奈良まちあるき風景紀行

唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。 多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。 「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。 金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。 現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。 鑑真大和上 >

先日の続き。 鑑真に関連して、唐招提寺の宝物を見ました。主役はもちろん、奈良時代に彫られた鑑真和上座像。京博では45年ぶりの公開になるのだそう。 こちらは仏舎利を奉安するために作られた金銅の舎利塔。平安~鎌倉期のもので、釈迦へと原点回帰を目指す律僧にとって、よりどころになるものだったとか。 こちらは伝獅子吼菩薩立像。鑑真が唐招提寺を開いた頃の仏像で、それまでの日本の仏像にはない特徴をもつため、鑑真と一緒に中国からやって来た職人が製作に関わったと言われています。 鑑真が開いた律宗は、南都六宗のうちの一つです。南都六宗とは、奈良時代、平城京を中心に栄えた6つの宗派の総称。当時からこう呼ばれていたわけではなく、平安時代以降、平安京を中心に栄えた「平安二宗」に対する呼び名だそう。 南都六宗と平安二宗の違いは下図のとおりです。 桓武天皇による平安遷都(794年)の背景の一つには、奈良仏教専横の問題があったとか。孝謙天皇が僧の道鏡(770?