〈中日の結果〉 三段目 和山 ー 海真 ○ (3-1) 日向龍 ー 出羽ノ城 ○ (4-0) 柳田 ー 佐田の豪 ● (1-3) 剛志丸 ー 霧津羽左 ● (1-3) 流武丸 ー 貴大将 ○ (3-1) 序二段 寅武蔵 ー 寺尾勝 ○ (1-3) 牧尾 ー 旭天稜 ● (1-3) 馬渕 ー 錦丸 ○ (1-3) 沼野 ー 竜口 ● (1-3) 序ノ口 藤武蔵 ー 大天真 ○ (2-2) 〈九日目の取組〉 三段目 日向龍ー鳩岡 剛士丸ー春日龍 序二段 寅武蔵ー若山中 風武ー昂輝 日向龍がストレートで勝ち越しを決めました! 「何でも自然に100%頑張る人間。」と日向龍について親方は話します。 まだまだこれから! 最後まで粘って頑張りますので応援よろしくお願いいたします‼︎
[ 2021年3月27日 05:30] 大相撲春場所13日目 ( 2021年3月26日 両国国技館 ) 響龍が動けなくなり、医師(中央手前)が土俵上に上がる(撮影・郡司 修) Photo By スポニチ 三段目の力士が取組中に負傷し、医師が土俵に上がるアクシデントが起きた。 勝ち越しがかかった今福―響龍戦。土俵際での今福のすくい投げで響龍が頭から土俵に落ち、うつぶせのまま動けなくなった。物々しい雰囲気に包まれる中、医師が土俵に上がり、容体をチェックした後に担架に乗せられ救急搬送された。響龍は意識はあるが、頸椎(けいつい)が圧迫されている可能性があるという。 続きを表示 2021年3月27日のニュース
スポンサーリンク 響龍の相撲動画 引用: 日刊スポーツ 3月26日に行われた取組の動画を探しましたが 現在のところ公開されていませんでした。 こちらは過去の動画ですが、問題となった動画が配信され次第 更新致します。 【追記】 響龍の相撲動画がアップされていましたので、 掲載致します。 響龍大丈夫ですかね。 かなり心配です。 #大相撲 #響龍 — ゲルニカ (@GerunikaGame) March 26, 2021 違う角度からの動画もありました。 響龍さん…ご無事で🙏 — と (@to35to3m5o) March 26, 2021 頭から落ちているのが分かりますね。 響龍の体重は 138. 7kg ですから、この体重が首への大きな負担となったのではないでしょうか。 響龍のその後の容態は?
「大相撲春場所・13日目」(26日、両国国技館) 三段目の響龍(28)=境川=が今福(二所ノ関)に投げられた際、首付近から土俵に落ち、動かなくなるアクシデントがあった。 うつぶせのまま、土俵上でぐったり。館内は騒然となった。審判の親方もぼう然と見守るしかない状況。5分たち、医者が土俵に到着。たんかに乗せられ、国技館内の相撲診療所に運ばれた。 中継のNHKは「話すことはできるが首から下が動かない。意識はある。救急車が到着し病院に向かう」などと説明した。
でもね、ちょっと彼女を満足させられてるか、不安なんですよね…」 なんて感じだろう。 ところが二番になると、徐々に不安にスポットが当たってくる。 愛の部品も そろわないのに ひとつになった この歌詞は、一番の歌詞にある、 君を愛する度に 愛じゃ足りない気がしてた と同じ感情を描いているようだ。 そしてその感情こそが、この曲のテーマ…先ほど私が力説した 「この愛はあなたの求めてる愛と同じなのだろうか? 問題」 であろう。 「足りない」「そろわない」というネガティブな表現で、彼女との幸せな関係に、一抹の不安を感じている男。 ネットでいろんな歌詞分析を見ていくと、やはりここに注目が当たり、「これは道ならぬ恋の歌だ」とする解釈も見かけたりする。 「世間一般的な愛ではない」という風に…うん、確かに読み取れそうだ。 だが前提として、 そもそも「愛の部品が完全に揃う」状態など、人と人との間にあるのだろうか? むしろASKAはこのテーマに注目してこの曲を書いたのではないか、と私は思うのである。 一度は「揃った」と感じられた関係であっても、その日その日を重ねるうちに、心というものはくっついたり離れたりを繰り返すものである。 (ファンの中には、チャゲアスの同年の名曲「tomorrow」の歌詞を思い出す方もいるだろう。そのような繊細な心情はこの時期のASKAの、重要なテーマだったに違いない。) ふたりの間で、愛が満ち足りる、愛の部品が揃う…そんな完璧な一体感など、果たして起こるのだろうか?
アグネス・チャン。なにかのテレビの企画で、「アグネスが好きなものベスト10」という中の8位が僕だったことがあって。これ、時間差両想いでしょ! 追い風参考でもいいですけど。
もはや曲の最後に至ると、悲しい運命をよけるのは神様が降らしてくれる雨でもなく、僕と君の「ふたり」なのである。 ふたりが、星をよける。 なんだかさらに、ロマンチックが割増された感じである。 先に述べたように「雨」が主語の場合、男が手にするのは神様というワンクッションを入れた、根拠のない安心感。 だが 「ふたり」が主語の場合、今までの過ちをなぞることなく自ら運命を切り開いていける、という、主体的な確信すら感じないだろうか? ちょと、彼、随分とたくましくなってない? 余計なお世話かもしれないが、不安増し増しの二番からのギャップが甚だしい。 なぜ、ここまでの心境の変化を経たのか? この謎に思いを馳せてみた時に、注目してみたいものがある。 それは、二番とラストのサビの間にあるもの…つまりそこに挟まれた間奏である。 この間奏こそが、根拠のない安心を確信に変えるマジックを、男に、そして聴く者の胸のうちに起こしてないか?
描かれている物語は、上手くいっている恋人同士(少なくとも、別れる前提の歌ではない)。また、「はじまりはいつも雨」については、これまで別れのキーワードだった"雨"を幸せの歌に使ったことで、一部からは "雨の概念を変えた曲" とさえも言われている。しかし、実際に伴ちゃんとASKAの歌を聴き比べてみると、ASKAの歌にはそれほど幸せな感じがしない。ではその変わりにASKAバージョンでは、どんな想いがこの曲を占めているのか?
何度も、そして何十年に渡って味わい直せる… これこそがASKAの楽曲の持つ真の力であり、魅力である。 そんな風に、「はじまりはいつも雨」の誕生から30年の時を経て、今大人の耳で聴き直した私には思えるのである。 *** さてさて。 このエッセイは、《「はじまりはいつも雨」を語ろう。》という企画に寄せて書いたものです。 私の呼びかけに集まって下さったたくさんの方々の想いが、一つのマガジンにまとめて収録されています。 ぜひ、この記事を読んで「はじまりはいつも雨」に興味を持った方、またこの曲を思い出し懐かしい気持ちになった方は、マガジン内の色々な記事を渡り歩き、1991年の空気に浸ってみてください!