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Mon, 20 May 2024 06:06:39 +0000
呪われた国「日本」。 呪霊を鎮めることを繰り返しながら日本という国は造られてきました。 歴史大好き、くろーるです。 日本三大怨霊でありながら史上最恐の怨霊でもある 崇徳 (すとく) 天皇。 天皇という最高権力者の座にありながら、ダークサイドに身を堕とし、自ら魔物となりました。 日本の大魔王となることを誓い、今なお、崇徳天皇の呪術は生き続けているのです。 日本という国そのものを呪った崇徳天皇の呪術の本当の狙いを教えます!! 怨霊になった天皇 本 感想 ブログ. 私たちは今も呪われている・・・・・ 父・鳥羽上皇から嫌われた崇徳天皇の忌まわしい出生の秘密 1119年(元永2年)、 鳥羽 (とば) 上皇 の第一皇太子として生まれた崇徳天皇。 母は、大納言・ 藤原公実 (ふじわらのきみざね)の娘・ 藤原璋子 (ふじわらのしょうし)、のちの 待賢門院 (たいけんもんいん)。 現役天皇とナンバー2の娘を両親にもった、生まれながらにしての天皇であったのです。 そんな崇徳天皇の不幸は、父・鳥羽上皇に嫌われていたこと。 鳥羽上皇から、一度は天皇の座を譲られた崇徳天皇でしたが、その後は、あらゆる手段を使って崇徳天皇に実権を握らせないように裏で動いていました。 それほどまでに自分の子を嫌う理由は何であったのか? 崇徳天皇は、鳥羽上皇の子供ではない!? 鳥羽上皇の祖父・白河(しらかわ)法皇の子供ではないかという疑惑です。 この当時、絶大な権力を振るった白河法皇が鳥羽上皇の妻・藤原璋子との間に生まれた子が崇徳天皇だといいます。 真偽のほどはわかりませんが、もし事実だとすると、鳥羽上皇は祖父に妻を寝取られたということになります。 これほどの屈辱を味わいながらも、白河法皇には逆らえない孫・鳥羽上皇。 そして、その鬱憤の先が崇徳天皇に実権を握らせないというイジメへと向かいました。 特に、1129年(大治4年)に白河法皇がこの世を去ってからは、鳥羽上皇のしたい放題。 崇徳天皇は、自分の子供を天皇にすることもできずに、その地位を継いだのは弟・ 後白河 (ごしらかわ) 天皇 でした。 後白河天皇は、崇徳天皇の弟でありながら、正真正銘の鳥羽上皇の実の子供だったのです。 父から嫌われ続けた崇徳天皇と兄でありながら兄弟とは認めない後白河天皇。 二人の確執は、やがてまわりの勢力に利用され、対立へと発展していきます。 「保元の乱」で敗れた崇徳天皇は無念のまま讃岐国へ都落ち 1156年(保元元年)、父・鳥羽上皇が亡くなります。 鳥羽上皇 崇徳にはけっして遺体は見せるな!
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怨霊になった天皇 - 爺さんが伝えたいこと

鬼・妖怪・幽霊・呪い… 日本には古くから様々な 怪異が伝えられてきました。 有名なモノであれば漫画や ゲームなどの モデルにもなっています。 皆様はその中でも "最強"といわれる 日本三大怨霊 を ご存知でしょうか?

崇徳天皇とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】 | 歴史上の人物.Com

クーデターはあえなく失敗 鳥羽法皇 はこの大乱を予想してたようです。自分の御所の警護をしていた 源氏 ・ 平氏 などの有力武士に、自分が亡くなった後は後白河天皇を助けるように命じていました。 クーデターはあえなく失敗。まちかまえていた後白河天皇派の武士から逆に奇襲攻撃を受けてあえなく後退します。 崇徳上皇は讃岐(香川)へ配流されました。そのため、崇徳上皇は 讃岐院 (さぬきいん)と呼ばれます。 強大な怨念をもった大魔王になる 京をはなれた讃岐院は、戦死者の供養と反省をするために仏教に帰依して熱心に写経をはじめます。そして、この写経を寺に収めてほしいと朝廷に差し出しました。 後白河天皇は、 後白河天皇 呪いが込められてるんじゃないの? と疑って写経を突き返します。怒り狂った讃岐院はその写経に、 讃岐院 大魔王になって日本国を転覆させてやる! 怨霊になった天皇 在庫. と、自分で舌を噛み切った血で書いて海に捨てました。 それ以来、讃岐院は爪や髪を伸ばしつづけ悪魔のような姿に変貌します。そして46才で亡くなりました。火葬の煙は都に向かってなびいたと言います。 讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)by Wikipedia その後、 平治の乱 など京都では不幸なことがつづきました。人々はそれを讃岐院の祟りだとウワサします。 江戸時代後期に書かれた、『 雨月物語 』(うげつものがたり)の「 白峯 」(しらみね)には、讃岐院が朝廷に呪いの言葉をはく様子が書かれています。江戸時代後期になっても語られるほどインパクトがあった事件なのでしょう。 崇徳上皇は 日本三大怨霊 のひとりで、日本最大級の怨霊になったことで有名です。 『椿説弓張月』より崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた一場面(歌川芳艶画)by Wikipedia 最大級の怨霊にビビった人たちは、『讃岐院』から『崇徳院』へ呼び方を変えました。 島流し先の讃岐を名前からとって鎮めようとしたんですね? 崇徳上皇を里帰りさせたのは明治天皇 明治天皇は即位したとき、使者を讃岐に送り崇徳 上皇 の霊を京都に連れて帰らせ、 白峯神宮 を創建してそこに祀りました。 明治天皇も『雨月物語』を読んだのかもしれません。自分の手で崇徳上皇の怒りを鎮めたいという思いに駆られたのでしょう。 こういうことを聞くと、大昔の話で日本昔話のようなエピソードでも、ぐっと現実の世界のような感覚になります。歴史のつながりってスゴイなぁと思います。 崇徳上皇は芸術の才能があった 崇徳 上皇 の詠った歌は百人一首に選ばれています。 『小倉百人一首』77番「崇徳院」by Wikipedia 瀬をはやみ 岩にせかるるたき川の われてもすゑに あはんとぞおもう (川の流れが早いので、岩にせき止められた急流が、ふたつに分かれてもまたひとつになるように、私たちもきっと結ばれるでしょう) 百人一首 という恋歌です。大魔王とは正反対のやさしい歌ですね?

クレオパトラに楊貴妃。 世界の東西を問わず、一人の女性に魅了され、国を滅ぼした例は多くあります。 歴史大好き、くろーるです。 待賢門院璋子 (たいけんもんいんたまこ) こと藤原璋子 (ふじわらたまこ)は、 養父・白河 (しらかわ) 法皇 と男女の関係をもったといわれます。 その結果として生まれた子供が、のちに 「保元(ほうげん)の乱」の引き金 となったのです。 一国の政治体制を変えるほどの魅力をもった藤原璋子。 しかも、 養父といえども準近親相姦ともいえる関係は、忌むべき行為といえます。 藤原璋子=待賢門院璋子は、 傾国の美女か魔性の女 だったのでしょうか? 養父・白河法皇さえ惑わす美少女・藤原璋子 大納言・藤原公実 (ふじわらのきんざね)の娘として1101年に生まれた藤原璋子。 7歳にして父が亡くなり、白河法皇が引き取り育てることになります。 「賀茂河の水 双六の賽 山法師 是ぞわが心にかなわぬもの」 そう『平家物語』に書かれた白河法皇とは、これ以外のものは意のままになるほどの絶対権力者だったのです。 藤原璋子を引き取ったとき、 白河法皇は48歳。 このときには、のちに40歳以上の歳の差を越え男女の仲になるなど考えていなかったのではないでしょうか。 白河法皇には、絶対権力者という顔をもちながら、一方で心の優しい愛妻家という一面があります。 28歳の若さで亡くなった最初の妻・藤原賢子 (ふじわらのかたこ)との別れのエピソードにはこうあります。 古くから"死"は不浄のものとされ、「穢(けが)れ」と呼ばれていました。 そのため、妻であってもその死に触れることは嫌悪されていたのです。 ところが、白河法皇は妻・藤原賢子の死に立会い、亡骸を抱いて泣き続けたといいます。 穢れに触れることを諫めた臣下に対し、 白河法皇 これこそ新しい前例とせよ!