11) p264-265「総勢で三十四名、随員の中には、外国奉行支配組頭田辺太一、通弁御用塩田三郎、同益田孝、蕃所調所教授手伝原田吾一、外国方翻訳官矢野二郎など、明治期の外交官や実業家として活躍した者も少なくない。」として5人の名があげられている。 福井延幸著「文久・元治期における幕府外交官僚の外交姿勢 横浜鎖港談判から」(『目白大学短期大学部研究紀要 第40号』p165-179 目白大学短期大学部 2003. 12)池田使節団については詳しい記述はあるが、ピラミッド探訪については記述なし。
現在、ホーチミンにいる日本人の数は、在留届を出している数だけでも 1. 1万人超 と言われています。 かつてサイゴンと呼ばれていたこの都市の歴史を紐解くと、1858~1862年の戦争で占拠され、1862年にフランスの植民地となってから約160年になります。 そんな 開発が始まって間もない頃のサイゴンの地を訪れた日本人がいたこと は、あまり知られていないでしょう。彼らはそこで何を見たのか?古文書、古写真、古地図など様々な情報を元に、忘れ去られた歴史について前後2回に分けて明らかにしたいと考えています。 1. 開国後、初の幕府海外使節団は東南アジアへも訪れた 1853年に黒船が来航し鎖国の時代は終わりを告げます。そして1858年に領事裁判権や関税自主権が無い、一般的に不平等条約と呼ばれる安政五カ国条約を締結しました。条約締結後、批准書交換のため幕府は使節団を送ることになります。 まずは1860年、勝海舟や福沢諭吉といったメンバーを乗せ、咸臨丸で太平洋を横断したことで有名な最初の使節団(万延元年遣米使節)です。批准書の交換はワシントンで行われましたが、その後大西洋を渡りアフリカの最南端である喜望峰を回ってインド洋を経て、世界一周して日本へ帰国したことは、あまり知られていません。 ということは経路上、東南アジアではどこに立ち寄ったのでしょうか? スフィンクスのイケメン侍は池田長発(いけだ ながおき)率いる池田隊だった!世界ふしぎ発見!ピラミッド写真あり! | Tonboeye. ワシントンで交わした条約の批准書(幕末から既に「大日本帝国」の名称を使っていたことがわかります) その答えは、当時書かれた古文書を昭和初期(1928~1930年)に日本史籍協会が再編纂した 『遣外使節日記纂輯. 第一』256~259ページ に書かれていました。 1860年10月1日(万延元年8月17日)にバタビア(現、インドネシアのジャカルタ、当時はオランダの植民地)に10日ほど停泊し、その次に停泊した場所は香港とあります。当時(1858~1862)ベトナムは、フランスとグエン(阮)朝の戦争中であり、まだ寄れるような状況ではなかったからと考えられます。 使節団が訪れる2年前、1858年のバタビアの地図。海に伸びているのが現在も残るジャカルタKota地区Sunda Kelapa港の埠頭と考えられます。 ちなみに使節団は、バタビアでこんなことを書き残しています。 ◆オランダより日本に船2艘分の品物を送れば、利益は1回で約100万ドルにもなる ◆バタビアでは、(長崎より持ち込まれた)日本の醤油が売られており、4合(721ml)も入った1瓶の値段が(国際郵送費も入っているのに)45セントである。 ◆一方で使節団が使っている歯磨き袋(粉)は、1つで25セントもする。 ◆このことから 日本商品の価値の低さ、国際競争力の弱さを嘆く 。 初の海外旅でありながら、経済的な視点で物事を見ている彼らの洞察力 に驚きます。日本が幕末から短期間で近代化できた理由の1つには、為政者である 武士たちの間でも貨幣を通じた経済的な視点を持っていたこと があるのではないでしょうか?
2』(F.ベアト〔著〕 横浜開港資料館編 明石書店 2006)参考資料:『遣外使節日記纂輯 3 日本史籍協会叢書 98』(日本史籍協会編 東京大学出版会 1987, 参考資料:『益田孝 天人録 横浜で実学を修め三井物産の誕生へ』(松永秀夫著 新人物往来社 2005), 参考資料:『幕末遣外使節物語:夷狄の国へ(講談社学術文庫 907)』(尾佐竹猛〔著〕 講談社 1989), 参考資料:『対外交渉史の研究 開国期の東西文化交流』(金井円著 有隣堂 1988), 参考資料:『幕末維新外交史料集成 6 修好門』(維新史学会編 第一書房 1978), 参考資料:『自由民権運動の系譜 近代日本の言論の力』(稲田雅洋 吉川弘文館 2009), 参考資料:『歴史読本 55(11)』(新人物往来社 2010. 11), 参考資料:『目白大学短期大学部研究紀要 第40号』(目白大学短期大学部 2003. 12), 備考:追記(2013/08/21)キーワードの池田長発(イケダ チョウハツ)の読みは国立国会図書館に準拠した。『人物レファレンス事典 明治・大正・昭和(戦前2)』には〈いけだ ながおき〉別名〈いけだ ちょうはつ〉とあり。個人の情報提供により以下の関係資料があることが判明した。「池田筑後守長発とパリ」(岸四郎著 岡山ユネスコ協会 1975)(国会図・岡山県立図蔵)「文久航海記」(三浦義彰著 冬至社 1942)(国会図ほか蔵)「文久航海記」(三浦義彰著 篠原出版 1988 複製)(県内公共図蔵)古城孝治著「池田長発評伝」(「高梁川 48号」高梁川 流域連盟 1990)(国会図・岡山県立図蔵)
瞳の色について 院長 廣辻徳彦 新天皇の即位の儀や一般参賀などがこの連休中に行われました。それを取り上げたニュースでは、参賀の群衆の中に外国人の姿も見受けられたようでした。おそらくそれほど長くはない日本滞在でしょうが、日本人でも東京近郊に居住していないとなかなか出かけられないものなので、彼らの旅の良い思い出になって欲しいと思います。 さて、外国人と日本人などと区別して書いてしまいましたが、人類というくくりで考えれば日本人や外国人などという差は全くなく、同じだと言えます。遺伝子的には99.
オーソドックスな茶色系2色に、黒、アンバーを加えた4つですが、ごくまれにこの中のどれにも当てはまらない目の色が生まれます。その中の一つが、ヨーロッパ人に多い青色です。 色素の薄い青色の目は、突然変異のようなメラニン色素の異常などが考えられます。また、日照時間の短い東北地方では、青色の目をした日本人が生まれやすいとも言われています。 6、日本人の瞳や目の色の種類、 6つ目はヘーゼル です。ヘーゼルとは茶色に見えますが、そこに緑色を混ぜたような色合いをした目の色です。二つの色が混ざった微妙な色合いが特徴です。 単色ではなく色が混ざっているのが特徴で、瞳孔を中心にその周辺と外側に2色の色が見られます。中心が茶色でその周辺が緑、またはその逆のように、2色の色が輪になったような独特の瞳をしています。 白人に多くいる色の特徴で、純粋な日本人、または日本人とヨーロッパ人のハーフには時々見られる目の色です。青色と同じく東北の方では、稀にこの色の日本人が生まれると言います。 これらは、親子や兄弟であっても個性が変わる色なので、家族同士お互いの瞳を覗いてみるのも楽しいですよ。一見同じ茶色でも人によって色のニュアンスに違いがあるので、面白いですね! ご自分のタイプを知ったうえで、さらに肌の色などを比べて、イエべなのか、ブルベなのか?追求できますよね_φ(・_・ やっぱり私がこの色を好む理由がわかったー!などとしっくり一致したりするとスッキリしますよ(*'▽'*) とても自分を知ることは、興味深いです。服や、カラーの時にチラッと思い出しながら選ぶのも楽しいと思います!