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賤ヶ岳(滋賀県) 「賤ヶ岳七本槍」とは?
ギリシャ十二神とか、三国志・蜀の五虎大将軍、チンギスハーンの四駿四狗とか・・・今回はそんな回でした
勇猛果敢な武将として知られる 加藤清正 かとうきよまさ 。 朝鮮出兵時の虎退治や熊本城の築城など数多くのエピソードがあります。 そんな加藤清正は、「 賤ヶ岳の七本槍 」と呼ばれていたことはご存じでしょうか? 今回はなぜ加藤清正は、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになったのか、使っていた武器はどのようなものだったのか解説していきます。 加藤清正がはどんな槍を使っていた 槍は室町時代中期から流行り、戦国時代にはたくさんの武将が主要な武器として使用していました。 加藤清正ももちろん槍を使って戦に臨んでいます。 加藤清正と槍の関係を象徴する事例をご紹介します。 現在使われている日本手話で、「加藤」を示す単語の一つに「両手の人差し指をやりに見立てて斜め右に突き出す」動作があります。 この動作は、 槍の名手だった加藤清正が由来 です。 時を超えて現代でも、加藤清正のイメージが根付いていると思うと、感慨深いものがありますね。 加藤清正は、どんな槍を使っていたのでしょうか?
益軒は『黒田家譜』で賤ヶ岳の七本槍の事を次のように記述しています。 福島一松先駆して首をとり、秀吉の御目にかける。その外秀吉の勇士、加藤虎之助、加藤孫六、平野権平、脇坂甚内、粕屋助左衛門、石川兵助、片桐助作、おおよそ七名、進み戦て柴田が先手を北の嶺へ追い上げ、分捕数多して比類なき高名せしかば、世俗にこれを志津が嶽の七本槍と号す。 続けて 石川兵助は、其処にてやがて討死す。 と書き、そして 福島一松戦功すぐれたりといへども、戦場かわりたる故、七本槍の数にいらず。 と注釈も添えています。 この様に益軒は七本槍に福島正則の代わりに石川一光の名を挙げています。 投稿ナビゲーション
ホーム > 旅行&おでかけ > 賤ヶ岳七本槍の真実!滋賀・賤ヶ岳古戦場で戦国ロマンに浸ろう 2021. 04. 18 滋賀県長浜市木之本にある賤ヶ岳は「本能寺の変」で織田信長が斃れたあとの織田家の跡目争いに端を発した織田家宿老の柴田勝家と羽柴秀吉の決戦の地です。また賤ヶ岳から望む「小谷城跡」は浅井長政とお市の方の悲劇が伝わる城跡です。木ノ本駅からレンタサイクルを使って、合戦に伝わる七本槍の真実と戦国ロマンを求めて賤ヶ岳古戦場跡を訪れてみませんか?
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