2019. 9. 30 こんばんは。 虐待・夫婦問題専門の山田孝典です。 今日は男性の大好きな女性の笑顔。 その中で最も好きなのが愛する(? )妻の笑顔について、 悩んでいる人がやっちゃっている勘違いについてお伝えします。 男性にとっては、 奥さんがいつも不機嫌 で、 笑顔がなかったら、かなりげんなり しますよね。 ずーーーっとそんな状態だと、 結婚して何もかも変わってしまった 奥さんの明るい顔がみたい 付き合っていた頃の笑顔がみたい って思うんじゃないでしょうか。 ましてや死ぬまで毎日顔を合わせるわけですから、 5年、 10年、、 20年、、、 ・・・ 50年! に及ぶ大問題ですね。 あの笑顔をずっと見れたら本当に幸せだ 私もよく思っていました!笑 特に、 結婚してから笑顔がなくなった。 付き合っていた頃は笑顔に惚れていたのに。 あの笑顔をずっと見れたら本当に幸せだと思っていたのに。 ああ、 なぜ~~ 私のあの笑顔~~~ 帰ってこーーーーい (俺のせいじゃあるまいな?) なんて思っていました。 えーーーっと、 これ、 奥さんの笑顔が消えたのは、 半分は奥さん自信の責任、 もう半分はあなたにも責任があります(笑 責任があるからといっても、あなたが悪い!ということじゃないですよ。 あなた 次第で奥さんに笑顔が戻る ということです。 あなた次第といっても、ご機嫌になるように花束とか指輪をプレゼントしよう! マッサージしてあげたり、かわいいねと褒めてあげよう! ということではないですよ。 (安心してください) 笑顔だけ見たいと思っていませんか? あなたに質問があります。 あなたは 奥さんの笑顔「だけ」見たい と思っていませんか? 妻の笑顔を取り戻したい -私は結婚4年目の夫です。子供はいません。妻- その他(結婚) | 教えて!goo. 笑顔「だけ」見たい。 笑顔「以外」は見たくない。 みたいな。 これ、無理です。 都合よすぎます。 奥さんがかわいそうです。 ずっとご機嫌でいる。 雨の日も風の日も嵐の夜も、ずっとご機嫌でいる。 これは無理です。 もしそう思っていたら、それ(笑顔「だけ」見る)は諦めてください。。。 それが勘違いです。 無理な要望です。 あなたも会社でずっとご機嫌って無理ですよね? やることがなくて暇でも、残業続きでも、めんどくさい仕事ふられても、ずっとご機嫌でいる。 やろうと思っても無理です。 もしやっていたら、心が壊れてしまうはずです。 (もしかしてそれで壊れてたりしませんか?)
mysunshineさん、こんにちは。 私自身結婚間もないのですが、もし私が奥様の立場になったらと思うと、ご質問を拝見して、とても悲しい気持ちになりました。 さて、奥様へどう接していくべきかとのご質問に対してですが、以下のURLが参考になるのではと思いました。ぜひのぞいてみてください。 私ももし流産してしまったら、この女性と同じように思うと思います。つまり (1)励ますのでなく(また夫としてどう思ってる・努力するとか自分の考え・感情を伝えてくるのでなく)、ただ私(妻)のつらかった思いをひたすら聞いて、「思いっきり泣いていいよ」「ちゃんと力になれなくてごめんね」というスタンスで話しかけて欲しい。 ということです。 たとえ私(妻)が 「もうあなたとは話したくない」 と言っても(私もぐずると同じような発言をします)、それは本心ではなく、夫の愛情を試しているようなものです。だから間違ってもそこで 「そっか、話したくないんだ」 と引き下がられては、その程度の愛情なのね・・・と余計に悲しくなります。(←これは重要です!絶対離れないでねばってください!) また >両親や親戚から子供はまだかといわれる >「子供子供と言われ続け、子供を生むことを義務的に感じて嫌」 という部分から拝察するに、周りからの度を超えたプレッシャーがあるようですね。 妊娠に関する質問や励ましは、現在ではモラハラですよ!!職場では罰則されるくらいです。例え家族だ、親戚だといっても、「子供楽しみだわ」「出来たら教えてね」とかすら、"ハラスメント(本人が嫌と感じることが基準ですからね)"です。もっと(夫も妻を守るために)抗議すべき内容です! 私も実母から「孫ができたらああしてこうしてあげたい!」と言われると、「それはモラハラだよ!
再構築2年後、妻が無表情になりました。どうしたらよいでしょうか?
無差別的に接近可能になったものが、今度は差異表示記号として機能しはじめた。その結果消費が社会全体を均質化するように見えて、消費を通じて社会の内側に差異のシステムが構築され、誰もが差異のコードに自分自身を記号化して書き込まないといけなくなる。 あらゆる種類の反社会的言説、消費社会に対する批判的言説さえもが、消費対象として記号化され「回収」されてしまう。 それが、欧米消費社会をしのぐとも思える、集団的消費社会(帰属集団と同じものを消費し続けないと誰もが不安になる社会)を実現した。 差異かされた記号としてのモノの流通・購買・販売・取得は今日ではわれわれの言語活動であり、コードであって、それによって社会全体が伝達しあい語り合っている。これが消費の構造であり、言語である。 こうして消費社会では、あらゆるモノやサーヴィスが商品化されると同時に、消費者相互間の微妙な差異を表示する言語記号となり、消費者は日々の消費行動を通じて、全社会規模の差異のネットワーク上で際限のないコミュニケーションから逃れられなくなってしまう。
ボードリヤール『物の体系』、宇波彰訳、法政大学出版局、1980年、pp. 246-247) 実は、消費のための製品というこの社会制度の記号が、そのように初歩的な民主主義的足場を作るということさえも真実ではない。なぜなら、それらの製品はひとつひとつ切り離されたのでは(自動車でも電気剃刀でも)、それ自体としては価値をもたないからだ。それらの集合的配置や全体の輪郭、モノとモノの関係、総体的「遠近法」だけが意味を持っている。そしてそれは常に差異表示記号として機能するのである。モノは記号の形をとるときにこの構造的規定を受けとる―— モノがこうした規定を受けないことはまず不可能なのである 。消費のための製品は、学校と同じように他の制度と同一の社会的論理に従うので、ついには自分と正反対のイメージを与えることにさえなりかねない。 学校もそうだが、消費はひとつの階級的制度である。 [...] つまり特定の人びとだけが、環境に内在する諸要素(機能的生活、美的素質、高い教養)の自立的で合理的な論理に接近できるという意味の差別だ。これらの人びとはモノとは関係がなく、正確にいって「消費」しない。他の人びとは、魔術的経済を受け入れざるをえない、つまりモノ自体に価値を与え、他のすべてのもの(思想、余暇、知識、文化)にモノとしての価値を与えざるをえない。実は この物神崇拝的論理こそが消費のイデオロギーに他ならないのである 。 (J. 64-65) 現代において、モノは直接的な欲求の対象ではありません。モノとモノの関係から生まれる、そのモノの持つ記号的意味が消費されるのです。モノそれ自体が消費されるのではなく、モノが記号として消費されることで、「消費」の意味が生じてくるといえるでしょう。 文化体系とモノ 3.
ホーム > 和書 > 社会 > 社会学 > 社会学一般 出版社内容情報 すべては消費される「記号」にすぎない――時代を拓いた名著に新たに索引と幻の原書初版から著者自身による写真2点を追加した決定版 他人との差異を示すためのファッション、インテリア、自動車からメディア、教養、娯楽、余暇、美しさ・健康への強迫観念、セックス、疲労、暴力・非暴力まで――すべては消費される「記号」にすぎない。 1970年にいち早く「消費社会」という概念を提示し時代を拓いた名著に新たに「索引」と幻の原書初版からボードリヤール自身による写真2点を追加した決定版!
ボウラー 著; 鈴木善次 他訳 、朝日新聞社 、1987年 、2冊 カバー付、小口天少シミ ¥ 750 『科学朝日』 編 、293, 8p カバー・帯付 朝日新聞取材班 、2007年 、341, 4p 、2006年 、265, 4p カバー・帯付
現代を特徴づける「消費」 ボードリヤールは現代社会における「消費」をどのように捉えているのでしょうか。 消費は、物質にかかわる行動ではなく、《豊富さ》の現象学でもない。それは食料品によっても、衣服によっても、自動車によっても、イメージとメッセージという、口で伝えたり目で見える実体によっても定義されるものではなく、そういうもののすべてを意味作用を持つ実体に組織することとして定義される。消費は、 今や多かれ少なかれ整合的な言説として構成されている 、 すべての物 ・ メッセージの潜在的な全体 である。消費は、それがひとつの意味を持つ限りにおいては、 記号の体系的操作の活動 である。 ※引用に際して傍点を下線に変えてあります。 (J. ボードリヤール『物の体系』、宇波彰訳、法政大学出版局、1980年、p. 消費社会の神話と構造 第2部. 246) 豊かな社会の富がどれほど浪費と結びついているかは、よく知られている。 [...] がらくたやゴミ屑の統計は、それだけではちっとも面白くない。それは供給された財やその豊富さの量についてのくどくどしい記号にすぎない。消費のためにつくられたが消費されなかったもののカスしかそこに見ないなら、浪費もその働きも理解できはしない。この場合にもまた、消費の単純な定義―—財の絶対的有用性の上に成立する道徳的定義が姿を現わすことになる。われらのモラリストたちは、こぞって富の濫費に対する闘いに立ち上がるというわけだ。この闘いは、 モノの使用価値といってもよいような、モノ自体に内在するこの種の道徳法則 やモノの耐久性をもはや尊重しないで、自分の持ちものを捨てたり生活程度や流行等の気まぐれに従って取りかえたりする私的個人に対する闘いから、国家的・国際的規模の浪費や地球的規模の浪費に対する闘いにまで及んでいる。 [...] こうした考えからは、少くとも次の事実が図らずも明らかになる。われわれが 真に 豊かな時代にいるのではなくて、現代に生きる個人や集団や社会や種としての人類そのものが稀少性の記号のもとに置かれているという事実である。 (J. ボードリヤール『消費社会の神話と構造』、今村仁司・塚原史訳、紀伊國屋書店、1979年、pp. 38-39) モノと記号 モノが記号として流通し、モノが記号として消費されるとはどういうことでしょうか。 消費される物になるためには 、 物は記号にならなくてはならない 。つまり、意味作用だけをする関係に対しては何らかの仕方で外的でなくてはならず、そのためにこの具体的な関係に対しては 恣意的 であって整合的であってはならない。しかしこの記号は整合性を導入しており、それによって他のすべての記号としての物に対する抽象的・体系的な関係のなかで、その意味を取り入れている。物は記号になることによって《人間化》し、シリーズに入るなどの変化をする。それはその物質性においてではなく、差異において消費される。 (J.