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Sun, 30 Jun 2024 17:03:03 +0000

今日は何の日 元和2年4月17日 徳川家康が没。原因は鯛の天ぷら?

家康の辞世の句は家臣の自殺を禁止するものだった! | はじめての三国志

天下統一=ゴールではなかった!? うーむ。 天下統一を成しとげたのはいいのですが、それが「ゴール」とは言えんような気がするのです。 と、言いますのは? 人質生活から始まった人生は苦難の連続、心休まるときはありませんでした。 それでも天下を統一すればきっと安心できる、そう信じて戦国の世を生き抜いてきました。 なにせこの日本中が我がものになるのですから。 でも現実は…。 違ったのですか? 天下は統一しても、安心は一時のことでした…。 まず、家来の反乱が不安で不安で…どうすれば防げるか悩みました。 戦国の世で裏切りを山と見てきたからでしょうな…。 大名の妻子を江戸に住まわせたのは…。 はは、いわば人質です。 また孫二人が跡継ぎ問題で争いまして…家族も分断されてしまいました。 息子夫婦は私を恨んだでしょうな。 家康さん、朝廷とも揉めてましたね。 あれちょっと強引じゃありませんでした? はい…ですが、幕府にとって替わるのでないかと思うと不安で…。 なんと…全然落ち着けなかったんですね(汗) 他にも、息子がグレたり、家臣団が分裂したり…このときは一方を見限るしかありませんでした。 それと…。 ちょっと、際限ないじゃないですか~! 家康の辞世の句は家臣の自殺を禁止するものだった! | はじめての三国志. (汗) そうなのです。 いわばゴールのないマラソンを走っているような感覚です。 私の一生を総括するなら、これになりますかな。 (紙に何やら書きつける) 「 人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし 」 私の人生は重たい荷物を背負って、終わりのない道をひたすら走っているようなもの…。 うーむ、重みのある言葉よの。 でも分かるような気がする。天下統一も一つの通過点じゃったと痛感したぞ。 まことに。本当に安心できる「ゴール」とは、いったい何なのでございましょうなぁ。 てっきり天下統一したら、左うちわで悠々自適な日々かと思ったら… 重荷を背負って生きていく先はどこなのか、と問いかけられている気がします。 そうじゃの…。ん? 女将、酒が切れてしもうた。 はい、いま持ってきますよ♪ 人質、裏切り…長く険しかった家康のキャリア 信長、秀吉の跡を継ぎ、最後に笑った家康ですが、その道程は決して平坦ではなく、スタートから苦難の連続でした。 織田、今川という二大勢力に挟まれ、幼少期を今川の人質として過ごします。 ようやく独立できたかと思えば、今度は家臣の裏切りにあいます。 信長には頭が上がらず、同盟者でありながらほとんど家来のように振る舞わねばなりませんでした。 武田信玄の侵攻にも再三悩まされます。 家康は、心休まるときがなかったことでしょう。 家康はここが違う!

天下は天下の天下なり…徳川家康の遺言 | Web歴史街道

三河 ( みかわ) の弱小戦国大名の家に生まれ、織田家、今川家の人質として幼年期と青年期を過ごしながら 桶狭間 ( おけはざま) の戦い後に独立。 織田信長 ( おだのぶなが) と同盟し秀吉と天下を競いガマンにガマンを重ねて天下を獲った苦労人、 徳川家康 ( とくがわいえやす) 。 そんな家康の辞世の句には家臣の自殺を禁止するメッセージが込められていたってご存知ですか? 徳川 家康 辞世 の観光. 徳川家康の辞世の句とは? さて、そんな徳川家康の 辞世 ( じせい) の句は、以下のようなものです。 先に行く あとに残るも 同じ事 つれてゆけぬを わかれぞと思う 意味は、私は一足先に行くが、お前達は残されるとはいえ、いつかは来る道なのだ。あの世で再会するまでのお別れだから、急いでついてくるなよ。 現代の感覚で聞くと、俺は一足先にあの世で待ってるぞ、バイバイ!お前らはゆっくり来いよと呑気に言っている感じに聞こえます。でも、時は戦国時代であり、家康の辞世の句には強いメッセージ性がありました。家康の言う連れて行けぬとは、後追い自殺、すなわち 殉死 ( じゅんし) を禁止するものです。 流行する殉死に家康が喝! 武士の世界における殉死の習慣は長い間、敗戦により主君が腹を切った時に供をするという場面に限られ、主君が病死した場合に殉死する習慣は戦国時代にはありませんでした。しかし江戸時代になると、合戦の機会が減って戦死する機会が減少したので、忠義の示し方として主君が病死しても殉死する習慣が生まれたようです。 江戸時代の殉死の最初は、1607年、徳川家康の4男、 松平武蔵守忠吉 ( まつだいらむさしのかみただよし) が病死した際、近臣の 稲垣将監 ( いながきしょうげん) 、 石川主馬 ( いしかわしゅめ) 、 中川清九郎 ( なかがわせいくろう) が腹を切ったのが最初のようです。この事件は江戸幕府にも伝えられますが、老中たちは「あっぱれな忠義」とでも思ったのか、何も言いませんでした。ところが、この殉死に猛烈に機嫌を悪くした人がいました。 大御所 ( おおごしょ) として駿府にいた徳川家康です。 家康激怒、殉死を許す主君はバカだ!

忍耐した末に見た景色とは?天下人・家康の辞世の句 こんにちは、歴史から学ぶ人生ナビゲーターの木口です。 世の中、思いどおりにならないことがたくさんあります。 思わず誰かに愚痴をこぼすこともあれば、人知れず涙に暮れることもあるでしょう。 思い描いた未来像とはずいぶん異なった現状に、ため息をつくときもあるでしょう。 一難去ってまた一難。 人生とは、降る雨の中、吹く風の中、細く長い道を進むようなものかもしれません。 特に現代人は、毎日何かに追われて、心の余裕を失いがちです。 しかし人生という荒波にもまれているのは、特定の人だけではないようです。 「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」の句でも有名な家康。 戦国の世に最後に笑った家康は、晩年、自分の人生を振り返っての思いを辞世の句に書き記しています。 鳴くまで待った末に、ついに天下統一を成し遂げた家康は、そこにどんな景色を見たのでしょうか。 家康75年の述懐「人生とはマラソンに似ている」 オリンピックいつになるか分かりませんけど、皆さん楽しみにしている種目ってあります? 徳川家康 辞世の句 意味. オレはなんといっても相撲だな。 あの、種目にないのでは。相撲好きなのはわかりますが。 ワシはセパタクローじゃな。 蹴鞠で鍛えたワシじゃから代表になれるかもしれんな。 だからないですって。 家康さんはいかがですか? 私はマラソンですな。 (やっと普通の種目が出てきた) どうしてマラソンなのですか? 何というか、自分の人生と重なり合うような気がするのです。 苦しみに耐えながらひたすら、健気に一歩一歩前に進む姿が。 そういえば家康さんは、小さい頃から苦労の連続だったとか。 そのとおりです。 生まれた松平家は、織田と今川の2大勢力の板挟みで汲々としておりまして。 私は6歳で人質にとられ、10年以上、今川のもとにおりました。 オレが桶狭間で今川を破ってから、ようやく独立したのよ。 こいつは20歳になっておった。 はい。 それから信長さまと同盟を結んだのですが、家臣が離反したり、隣の武田信玄にコテンパンにやられたり、(怖い信長さんに頭が上がらなかったり)…大変でした。 まぁ、おかげで忍耐力は身につきましたな。 「鳴くまで待とうホトトギス」 は私の得意技です。 それはまた苦労をされましたね。 ありがとうございます。 でも信玄どのからは多くのことを学びました。 天下をとれたのは信玄どののおかげと思っております。 敵対する相手からも学ばれたのですね。 さすがは家康さん。 苦労が実って、晴れて天下統一のゴールにたどり着かれたのですね。 家康、驚きの告白!

20人の天皇で読み解く日本史 歴史を動かした20人の天皇 第26代 継体天皇 第38代 天智天皇 第40代 天武天皇 第45代 聖武天皇 第50代 桓武天皇 第59代 宇多天皇 第66代 一条天皇 第72代 白河天皇 第77代 後白河天皇 第82代 後鳥羽天皇 第88代 後嵯峨天皇 第96代 後醍醐天皇 北朝初代 光厳天皇 第100代 後小松天皇 第106代 正親町天皇 第108代 後水尾天皇 第119代 光格天皇 第121代 孝明天皇 第122代 明治天皇 第124代 昭和天皇 supervision: Hirofumi Yamamoto text: Akiko Yamamoto, Mimi Murota illustration: Minoru Tanibata Discover Japan2019年6月号「天皇と元号から日本再入門」 ≫天皇とは「祈り」。2000年以上受け継がれている日本人の心とは ≫日本人なら知っておきたいニッポンの神様名鑑。神様の基本をおさえよう ≫まるで大奥! ?天皇の超プライベート空間「御常御殿」

隠岐国分寺の御朱印~後醍醐天皇ゆかりの地~(島根県隠岐郡隠岐の島町) | 御朱印のじかん~週末ドロボー~

所在地 島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前5 宗 派 東寺真言宗 由 緒 741年、聖武天皇の発願のもと、全国に建立された国分寺の1つ。867年、隠岐国は出雲国・石見国・長門国・伯耆国とともに新羅に近いということで八幅四天王像が送られ、新羅の調伏の道場という役割を担ったそうです。1331年、元弘の乱で鎌倉幕府の倒幕に失敗した後醍醐天皇が、1332年に隠岐に配流された際、このお寺を行在所としたといいます。しかし、西ノ島町の黒木御所も後醍醐天皇の行在所とされているため、どちらが本当の行在所かは定かではないそうです。1869年、隠岐廃仏騒動の際、隠岐の寺院は全て焼失。2011年、奈良時代の遺構や遺物が発見され、現在も発掘調査が行われているそうです。 境内入口と山門 ●境内入口 隠岐といえば 島流しの定番地 。 この隠岐国分寺は、隠岐に島流しにあった 後醍醐天皇の行在所 だったんだって。 そんなこんなで、隠岐の島町池田風呂前に位置する 隠岐国分寺 に到着。 ●山門 ●山門 ・建立年不明 ・瓦葺 棟門 山門には 11菊花紋と桐紋 が合体した寺紋がありました。 16菊花紋はよくお見かけしますが、11菊花紋とは珍しいですね! 隠岐国分寺の御朱印~後醍醐天皇ゆかりの地~(島根県隠岐郡隠岐の島町) | 御朱印のじかん~週末ドロボー~. ちなみに16菊花紋は皇室が使用している紋です。 そして 11菊花紋 は、国会議員の議員バッヂにデザインされている紋章です。 桐紋は室町時代以降、皇室や豊臣政権などが使用していて、現在では日本国政府の紋章として用いられてます。 それにしても、このお寺の寺紋・・・菊紋も桐紋も政府がらみ・・・これは何か深い意味があるのかなぁ??? 本堂と発掘調査の様子 ●本堂 ●本堂 ・2014年再建 ・瓦葺 入母屋造 ・宗派は東寺真言宗 ・本尊は釈迦如来像 見るからに新しい本堂です。 どうやら2007年に火災で焼失したらしく、その後2014年に再建したみたいです。 ●発掘調査の様子 そんなこんなで、2007年の本堂焼失に伴い、2009年から発掘調査が始まったんだって。 その際、柱が腐らないように柱の根元に瓦を巻いた 根巻瓦 が発見されたんだって。 ちなみに、根巻瓦は全国に例がなく 隠岐国分寺独自の技法 なんだって。 その他、奈良時代の瓦などが大量に出土したそうです。 後醍醐天皇行在所の碑と王城鎮護社 ザックリと簡単に後醍醐天皇とは? 後醍醐天皇は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて活躍した第96代天皇。 ならびに 南朝の初代天皇 です。 鎌倉幕府を倒す計画がバレてしまって、隠岐に島流しにされました。 1年後、島を脱出して 建武の新政 を開始。 そして、楠木正成などの武士の力により倒幕に成功しました!

風の時代の雛形の一つがある場所 まだあまり情報が日常の中にあふれていない島、隠岐。 そんな隠岐だからこそ感じられる、この"冒険感"。 そして、本当の意味での"初めて"を体験できる感覚。 旅を通して感じていたのですが、 この感覚は実は今を生きる人々に最も必要なものではないかと思いました。 なぜならこの現代社会の高度に仕組み化された世界観の中では、仕事も遊びも本当に色々なもの・こと・場所にルーティーンやプロセス、役割、ルールが決められていることが多く、"正解・不正解"があり、私たち自身もいかなるときでも正誤を感じる、ジャッジが常に付き纏う社会を生きているように思います。 でも、この島はそういった世界線とは、なにか・どこか・なんだか、違います。 ここでは相手は大自然。 仕事の仕方なんて、遊び方なんて教えてくれません。 また、そこには正解も不正解もありません。 (↑ ↓ 緑もとっても豊か!) 大自然を遊び場にかえるのは私たち。 創意工夫して、ここでの生活をおもしろおかしくするのはほかのだれでもない、 私たちであり、私たちのセンスや遊び心なのです。 仕組みに任せるのではなく、自分たちで何かを生み出す、 自分たちで自分達の生活を面白くする力。 そういうものがこの島には其処ここに溢れていました。 「自然のなかを地球と調和して生きるセンスと生命体としての活力」 そういう"人が本来持つもの"を取り戻せる場所。 それが隠岐島であり、この島がもつパワーなのかもしれません。 島の人たちとの触れ合いもまた楽し 今までの土の時代においては、この島はどちらかというとスポットライトを浴びづらい場所だったかもしれません。 ただ、これからの"人間力"が重要視される風の時代においては、この島は時代のleading sanctuaryとなっていく場所であり、風の時代を引きいる人たちを多く輩出する土地になるような予感を得ました。 また、ここは土から風へ、人々がそのモードを切り替えていく、 スイッチングプレイスのような役割も担ったりするのではないかと、 沈む夕日を眺めながら、ふとそんなことが頭をよぎっていたのです。 * そんな隠岐島が気になった方に向けてlink、 置いておきます! ↓ h