ここにはなんと、元屋敷陶器窯跡の発掘調査で出土した美濃桃山陶の陶片2431点が重要文化財に指定されています。また、元屋敷陶器窯を含め、土岐市内の窯跡から発掘された陶片が数万点収蔵されているというのです。いかにこの地で多くの陶器が焼かれていたかがわかります。 岐阜県土岐市泉町久尻の「織部の里公園」には、安土桃山時代の大窯3基が復元され、美濃最古の窯である江戸時代初頭の連房式登窯の遺構が保存公開されています。昭和のはじめに美濃桃山陶ブームが起き、各地の窯跡が荒らされ、盗掘されるなどの被害も出ましたが、ここ元屋敷陶器窯は、陶祖の子孫が盗掘に遭わないよう、寝ずに見張り番をして守っていたそうです。そのおかげでこれだけの出土品が地元に残りました。発掘されたものは当時流通できなかったとはいえ、史料としては大変貴重なものばかりです。 美濃桃山陶って、そもそもどこが凄いのか!?
春日:もともと、清和源氏の末裔、土岐氏一族のうち土岐明智氏が妻木郷を治めていました。戦国時代、土岐明智氏の分家だった妻木家が、本家の土岐明智氏に代わり妻木郷(土岐市妻木町)の領主となりました。「本能寺の変」後、ここ東濃地方は織田信長の重臣だった森長可によって平定されます。この長可の配下となったのが妻木氏で、元屋敷陶器窯のあった久尻に領地を与えられたのです。 歴史上の人物として、そこまでメジャーではない妻木氏ですが、「麒麟がくる」で妻木煕子が明智光秀に嫁いだことで一躍注目を集めるようになりました。ここ土岐市には、伯父・妻木広忠が城主の妻木城もあったのですが、広忠は「本能寺の変」後に自害。息子の伝兵衛は生き残り、森長可に仕え、さらにその息子の家頼の時代には徳川家康に従います。 ―では美濃桃山陶を発展させたのは、妻木氏ということでしょうか? 春日:妻木氏がさらに元屋敷陶器窯の発展に貢献したと言えます。江戸時代初頭に美濃最古の連房式窯「元屋敷窯」が築かれます。この窯については、『瀬戸大釜焼物並唐津窯取立之来由書』に、久尻の加藤景光の長男、景延(かげのぶ)が、九州唐津で連房式登窯を学んで帰り、美濃で同じものを築いた経緯が記されています。この連房式登窯は、唐津の窯を倣って築かれたものです。これが慶長10(1605)年ごろとされています。窯の技術を唐津から移転することができた背景には、妻木氏の娘が、唐津藩主の寺沢広高に嫁ぎ、姻戚関係があったためと言われています。妻木氏の御殿のすぐ脇に御殿窯と呼ばれる登窯が造られました。そこから唐津式の窯道具が出てきていることから、この地に唐津の職人が来て、焼いたんだろうとも言われています。 全長24mの連房式登窯の迫力は想像以上で、14室の焼成室が造られていました。この大きさであれば、相当の数の茶陶が焼かれていたことは一目瞭然 天下統一した豊臣秀吉の朝鮮出兵で、連れて来られた朝鮮の陶工により、九州各地に窯が開かれますが、美濃にも影響を与えていたのです。なんだか戦国武将の活躍の裏に「やきものの歴史あり」と言えそうです。 戦国時代、武将や戦にばかり目がいきますが「やきもの」に注目してみるのも面白いですね!
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最近、NHK 大河ドラマ 「麒麟がくる」が記事になるたびに、ネットのコメント欄に〈望月東庵と駒の出演シーンを減らせばもっと面白くなるのに〉といった感想があふれ返る。望月東庵は堺正章(74)演じる医師で、駒は東庵の助手役で 門脇麦 (28)が演じている。2人とも実在する人物ではないが、劇中では重要な役柄と位置付けられている。 コロナ禍で約3カ月間の放送休止を余儀なくされ、8月30日から再開されたが、視聴率は11~13%台と低迷している。ドラマの評価自体は悪くないだけに、数字が伸び悩む原因としてこの2人が戦犯扱いされている。 「ドラマはいよいよ最終クールに入り、本来であればここからは合戦シーンが目白押しのはずでした。しかし、コロナ感染を防ぐためには集団での撮影は不可。結果、スタジオ内で少人数での撮影がどうしても増えてしまい、語り部的な役割の駒や東庵のシーンが目立ってしまうのです」(NHK関係者)
戦国武将と合戦のリアル 2020. 7. 28(火) フォローする フォロー中 明智光秀像(一部) 本徳寺蔵( Wikipedia より) ギャラリーページへ (城郭・戦国史研究家:西股 総生) 大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、 明智光秀 。日本人なら知らない人はないほどに有名な、歴史上の人物である。にも関わらず、 織田信長 に仕える以前の、この人の前半生は謎につつまれている。 越前にいたことがあるとか、 足利義昭 の足軽衆であったとか、 細川藤孝 の家臣であったとか・・・。さまざまな説があるが、どれも断片的な情報。そもそも、本当に美濃明智氏の一族なのかも、はっきりしない。 要するに、どこの何者なのか、よくわからないのだ。ドラマの6月放送分までに描かれてきた光秀の前半生は、ほとんど創作に近い。ではなぜ、これほどの有名人の出自が不明なのであろうか?
というと、当時の斎藤氏は織田氏との戦いで疲弊し、戦乱の最中、秀久の兄たちが次々と落命したのです。 秀久は急遽、本家に呼び戻され、家を継ぐ資格を得ました。 そして滅亡寸前だった主君の 斎藤龍興 を見限り(稲葉山城の落城時期については諸説あり)、永禄7年(1564年)には 織田信長 に従ったのです。 斎藤龍興(道三の孫)が信長に敗北! 国を追われてネチネチ攻撃やり返す 続きを見る 織田信長 史実の人物像に迫る!生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ年表付 続きを見る 秀吉の配下として共に出世を果たし 信長に仕えた秀久は、すぐに豊臣秀吉の配下とされました。 豊臣秀吉 数々の伝説はドコまで本当か? 大河ドラマ『国盗り物語』ってどんな作品?50年前の道三や信長描写が面白い - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン). 62年の生涯まとめ【年表付き】 続きを見る 秀吉が大きな出世を果たす前。天下人など夢のまた夢という若い頃の話であり、そのころから従った秀久は最古参の秀吉家臣ということになります。 漫画では、織田信長が 浅井長政 に裏切られた後の【 金ヶ崎の退き口 (1570年4月)】で、秀吉や光秀らと共に死地から脱するシーンが、序盤の一つの盛り上がりとなりますが、史実では特に記録は残されておりません。 信長最大のピンチ【金ヶ崎の退き口】とは?生還できたのは久秀のお陰? 続きを見る ただし、直後の【 姉川の戦い (1570年)】で戦功を挙げ、天正2年(1574年)に近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲市)に1000石の領地を得たことから、地道に戦功を重ねていったことは間違いないでしょう。 姉川の戦い(信長vs浅井朝倉)をスッキリ解説! 実質引き分けだった?
紙の本 尚隆がかっこいい 2020/01/25 01:06 2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。 投稿者: 匿名希望 - この投稿者のレビュー一覧を見る 尚隆が気持ちいいぐらいかっこいい 周りで使えている人たちは大変だと思うけど 信頼されているからありき の無茶ぶりですよね 延王延麒の最強タッグ 2020/02/13 22:57 1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。 投稿者: うれい - この投稿者のレビュー一覧を見る 延王尚隆が稀代の名君と呼ばれる訳がわかるな…六太は斡由の本性がわかるまでは、最初斡由にも蜂起する理由があると思って大人しくしていた訳だが、もし斡由が裏表ない人物でホントに心の底から民のことを考えていたら……??
死んでもいいのだとぬかすのだぞ、俺の国民が! 民がそういえば、俺は何のためにあればいいのだ!
ホーム > 書籍詳細:東の海神 西の滄海 十二国記 試し読み ネットで購入 読み仮名 ヒガシノワダツミニシノソウカイジュウニコクキ シリーズ名 新潮文庫 発行形態 文庫 判型 ISBN 978-4-10-124055-8 C-CODE 0193 整理番号 お-37-55 ジャンル 歴史・時代小説 定価 693円 特設ページ公開中!