他の2人の方の回答も参考にさせていただきます。 お礼日時: 2014/4/26 20:23 その他の回答(2件) ☆大学院受験というのは、 (例) 「糖尿病の治療に関する研究がしたい!」 →「糖尿病の治療の研究で有名なのは、A大学院のア教授と、B大学院のイ教授だ」 →「よし!
2~5. 【大学院】外部受験(院試)で東工大を絶対すすめする圧倒的7つのメリット! | in progress. 5割とかだと思います。 (院試のボーダーは6割!という謎情報よりは遥かに役に立つとは思いますが、ボーダーはご自身が受験する専攻によってバラバラですので、あくまで目安程度に受け取って下さいね。) 院試の噂その3 院試は大学入試と比べると簡単 大学入試と大学院入試では、勉強をする環境や受験に対するモチベーションが全く違うので、これは何とも言えません。 ただ、内部生が必死こいて数ヶ月勉強したにも関わらず、落ちてしまうケースも中にはあるので、大学院入試も決して簡単ではないかと思います。 院試の真実を簡単にまとめると、 「内部生だからと言って優遇される事はないし、5割5分前後の得点を取れなければ内部生でも普通に落ちる。」 ということになります。 しかし、内部生優遇はなくても内部生が有利になる要因は確実にあるので、それについてもまとめてみました。 ・きっと内部生が院試で有利になる点 1. 院試の過去問&解答が簡単に手に入る 内部生からすると、院試の過去問や解答なんてあって当たり前だろと感じがしてしまいますが、外部生からすれば院試の過去問を手に入れるのにも一苦労ですし、解答を作成するのにも相当な労力が必要です。 ただ、これも専攻によるみたいで、自分の受験する専攻では大学のHPにほぼ全ての年度の過去問と解答がアップロードされていました。また、調べてみたら院試受験サークルというものが世の中にはあるらしく、そこでは大学院入試の過去問やその解答をドライブ上で共有しているそうです。 しかし、自分の専攻で公開されていた(教授が作成したであろう)解答の中にも、いくつかミスがありましたので、院試サークルの解答もきっとどこか間違っていると思います。 (僕らが発見した解答上のミスは致命的なミスではありませんし、教授も採点が終わってから翌年の受験者へのサービスのために解答を作成しているだけだと思うので、院試の採点上のミスはないと思います。) 2. どの教授が院試のどの科目を作成するか把握することができるので勉強がしやすい 私が院試のこの問題を作成しました。と明言する教授はいないかと思いますが、期末試験と院試の問題が似ていたり、出題科目を専門としている教授が1人しかいなかったりするので、内部生はどの教授がどんな科目を作成しているか割り出すことができます。 そんなこと頑張れば外部生でもできるじゃねーかカスと思うかもしれませんが、僕らは教授の好きな問題や性格を知っていますよね。どの科目で受験するかは慎重に決めましょう。 また、問題の出題者である教授の作った講義資料が手に入るというのも、僕ら内部生にとって大きなメリットです。(ちなみに僕はそういった講義資料や課題を全部捨ててしまっていたのでA日程を取った内部の友達から譲り受けました。ありがとう。) 3.
明日(7/11)は、北条氏照どのと、その兄上である前当主 氏政殿の命日。 小田原駅近くの「おしゃれ横丁」という飲食店街の小路に、二人のお墓があります。なんでこんなところに?と思いますが、ここは、二人の胴が埋葬された(という噂の)伝心庵というお寺の跡地なのです。二人がこの上で腹を切ったと伝わっている石も置かれています。 ~階段を上がったところに氏照どのと兄上のお墓があります。いつもお花やお供え物がたくさん。~ お墓はどちらも高さ60-70cm位。小振りな2基の五輪塔は、仲良くくっついて建っています。 氏政さんのお墓の脇には大きな五輪塔があります。ご正室・黄梅院 (信玄の娘ね) のものだといわれていますが確証はないとのこと。夫達のより立派なのよ、これが。 兄弟二人のお墓は、江戸時代初期すでに荒れていたのを、当時の小田原城主・稲葉殿が造り直してくれたそうです。そのずっと後、関東大震災 (震源地は小田原!) で埋もれてしまったのを、地元の有志の方達が掘り出し復興したそうです。 なので、大きな五輪塔を含めた配置やなにやらも、400年前とは違っているかもしれませんね。 稲葉殿が建立した墓碑には二人の戒名も刻まれています。 「滋雲院殿勝岩傑公大居士 北条相模守氏政」 「青霄院殿透岳關公大居士 北條陸奥守氏照」 正式に相模守・陸奥守としてださり嬉しいよ、稲葉殿。 でも、政さんも「勝」ではなくて「松」では?あにゃ? 二人は、7月9日に小田原城から侍医の田村安栖の屋敷に移り、11日にそこで切腹したと伝わっていますが、別の説もあります。10日に徳川家康の陣に入り、切腹当日に田村邸へ行ったというのです。とすると、家康の陣で一晩、氏直さんと過ごしたのかしら。それから、切腹したのは田村邸ではないようだ、との話もありますね。 首は、京にさらされました。 辞世の句 (照-1) 氏照 辞世と伝わっているもの (関八州古戦録) 吹きと吹く 風な恨みそ 春の花 もみぢの残る 秋あらばこそ ~吹く風(西の勢力=殿下?)を恨むでない、春の花(北条一門?
この和歌(辞世)の解釈・・・ 北条氏政の辞世の句、 「吹きと吹く 風な恨みそ 花の春 紅葉の残る 秋あらばこそ」 をどう解釈すればいいかわかりません。 「吹きと吹く」のは風、それを「恨みそ」だから「恨まない」。 そこまでは大体分かるのですが、「花の春 紅葉の残る 秋あらばこそ」のところがよく分かりません。 詳しい方教えてください。 ちなみに氏政が死んだのは旧暦7月11日、新暦で8月10日です。 補足 勝手に解釈してみたところ、 「紅葉(=北条氏直の命、もしくは北条家の武名? )が残る秋がきたのだから、花の春(=北条一族のこれまでの栄華)を荒らして吹いてくる風(=豊臣秀吉など敵軍)を恨まない」 となったのですが、どうでしょうか?
戦国の名言だけをピックアップ! 「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」 辞世の句・最後の言葉 北条氏政 名言を共有しよう! 発言者 北条氏政について 北条氏政のプロフィールを紹介します。 幼名は松千代丸。通称は新九郎。おもな官位は相模守・左京大夫。後北条氏の第4代当主であり、北条家における実質的な最高権力者として関東一円を支配。北条氏の最盛期を築く。外交では徳川や伊達と良好な関係を築いていたが、対豊臣秀吉での外交に失敗。小田原の役を招いてしまい、北条家は滅亡してしまう。 なお、武田信玄の娘婿で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。 北条氏政の他の名言 北条氏政の考えや人柄がわかる、その他の残された言葉。