土方歳三を慕う部下で、元・桑名藩士の石井勇次郎は、土方の死のしらせを聞いた味方の様子を次のように表現しています。 「砲台に在る新選組、その長(=土方歳三)死すを聞き、 赤子の慈母を失ふが如く 悲嘆して止まず。あゝ惜むべき将なり」 慈父という単語もあるというのに、 土方がなぜ慈母なのか? という部分にツッコミを入れたくなる人もいるでしょう。 これには定説がありません。 ただし、筆者なりに考えてみれば、隊員の多くは生まれた身分は低く、社会の中で居場所がない者たちばかりです。 そんな集団が新選組であったことが重要なのでしょう。 単独では無力な彼らは、指針を与えてくれる誰かの保護を必要としている赤子のようなもの。 赤子が無条件に恋い慕うのは父よりもむしろ母であろう……というあたりで「慈母」という表現が選ばれたのではないかな、と思われます。 土方本人は自分のことを「京都ではキ印と呼ばれていた」といっていますが……(キ印=狂気)
(享年 43歳) 「坂本 九」は、世界的に有名な歌手です。 日本の歌謡界で、頂点に登りつめた ビック・スター です。 誰しも、そう思っている筈です。 しかし、事実は全く違います! 生前の彼は、歌謡界の 嫌われ者 でした! 当時 「坂本 九」は、業界から冷たく扱われメジャーな仕事を奪われていたのです。 何故かと言うと、歌謡界の重鎮らの 醜い嫉妬 です。 「坂本は歌が下手だ」「日本語の詩を正しく歌えない」「声が汚い」・・・ アメリカを始めとする諸国で「上を向いて歩こう」 通称 SUKIYAKI を称賛さたのが気に食わなかったのです。 権力者による謂れのない バッシング でした。 その結果 仕事の多くは、地方(ローカル)に追い遣られ 最後のテレビ出演が、北海道・札幌テレビ(STV)の「 ふれあい広場 ・ サンデー九 」(障害者向け番組)でした。 放映は毎週日曜日 am 9:30~10:00でしたので、私は何度か観ました。 決して、スターとして脚光を浴びる様な番組ではありませんでした。 俗に言う、地味な つなぎ番組 です。 それでも彼は、明るく振る舞っていたのが、思い浮かびます。 「坂本 九」は、日本で華々しい スポットライト など 受けていなかったのです! 「坂本 九」の事故死により、バッシングの件は忘れ去られたと思います。 歌謡界の重鎮達は、安堵した筈です。(厄介者がいなくなった) しかし、ファンの感情は変貌しました。 特に、 演歌離れ は顕著でした。 若者は、演歌を否定し始めたのです。 そこには「坂本 九」&「上を向いて歩こう」の影があると、私は思います。 歌謡界に対する 不信 と 疑惑 です。 「一曲売れると名が知られ」「二曲売れると飯食えて」「三曲売れると蔵が建つ」 要するに、音楽業界へ忠誠を尽くさなければ、業界から干されるのです。(権力者に嫌われるとアウトです) 「演歌の花道」とは、歌い手における 辛く厳しい「いばらの道」なのでしょうか? 土方歳三の勇気が湧く名言「灰になっても自分を貫け」 | はじめての三国志. 若い歌手が、演歌を敬遠するのは 当たり前です。 歌謡曲は「石の上にも三年」などと言う 修行僧 ではないのです。 日本で稼ぎ活躍しなければ、業界は本物と認めない? 余りにも、了見が狭過ぎます! それが証拠に「坂本 九」亡き後、世界に羽搏く ビック・シンガー は 一人も出ていません。 ◎ 洞爺湖畔の彫刻 「 九ちゃん 」の悲しみを感じます。 * 今年は「坂本 九」が亡くなって 37回忌 になります。 昭和期に 金字塔 を建てた「坂本」も、今では忘れ去られた存在です。 しかし、記憶 と 記録 に残る 名曲 は少なくありません。 一度「坂本」の楽曲を聞いて、在りし日を偲んでみては 如何でしょうか?